こんな調理器具を待っていた!
こうしてできあがったバウルー初号機。試行錯誤して作ったものが形になった時はさぞかしうれしかったことでしょう。そう思って田巻さんに訪ねると、意外な返事が返ってきました。
「品物ができたら嬉しいなんてとんでもないです。度重なる金型づくりや設備投資をして大量に作ったはいいものの、売れなかったらどうしようという恐れの方が大きかったですよ。それに、その時は納期に間に合わせることで精いっぱいでした(田巻社長)」。
しかし、そんな心配を打ち消すかのように、バウルーは爆発的な人気を獲得。「江上トミさんをはじめ、人気の料理研究家がテレビの料理番組や雑誌などでバウルーを使ったホットサンドを作るなど、いろんなところでバウルーが紹介されるようになりました(田巻会長)」。当時の人気たるや、店の前にトラックを横付けし、一度に何箱も荷下ろしする勢いだったそう。バウルーは、日本に新しい「食体験」をもたらしたのです。
あまりの人気ぶりに、イタリア商事の清水会長は、1978年7月、バウルー株式会社の渡辺さんら仲間とともに、バウルー市のお礼詣りにも行ったそうです。
「赤茶色の屋根が印象的な、小綺麗な街です。ブラジルに住んでいる弟の案内で市役所を訪れ、バウルー市長に挨拶もしました。『バウルーは今やブラジルのパン焼き機の代名詞となりました』という話をされていましたよ」。本場ではどんなものをサンドしていたかというと「チーズやハム、レタスやキャベツなど。ブラジルは日系人が多いので、挟む野菜も日本と変わらない印象を受けました(清水会長)」。
こうして軌道に乗ったバウルー社は、同ブランドで新たな焼き器を次々に発売します。たこやき、焼きおにぎり、大判焼き、チーズドッグ、より厚みがあって大きなパンが挟めるもの…。製造には至らなかったものの「イギリスパンのサイズで作ってほしい」「2種類が一度に焼けるものを」など、バウルーの名のもとに、さまざまな夢が広がりました。
さらに96年秋、バウルー社は、神田の台所用品総合卸・吉安(よしやす)の見本市にて、フッ素樹脂加工をいち早く取り入れたバウルーを発表。さらに焦げ付きにくく、使いやすいモデルへと進化を遂げます。
しかし、すべてが好調のように見えた矢先、誰もが予想もつかなかったことが起こります。バウルー社の倒産。それは、新規事業の不振によるものでした。バウルーの人気も、それをカバーできなかったのです。